探偵作家・雑誌・団体・賞名辞典-の-


野上徹夫(のがみ・てつお)

本名辻久一。1914年(大3)、大阪府生まれ。東京帝国大学文学部卒。大学時代より「映画評論」「戯作」に評論を発表。
1949年(昭24)、本名で評論集「夜の芸術」を発表。
1937年(昭12)、「探偵春秋」に「探偵小説の芸術化」を発表。
木々高太郎の「探偵小説芸術論」に賛同。
1981年(昭56)、死去。

幻影城掲載誌:12/35/作家が語る探偵小説観/


延原謙(のぶはら・けん)

本名延原謙(ゆずる)。1892年(明25)、岡山県生まれ。早稲田大学理工学部卒。別名小日向逸蝶。妻は作家の勝伸枝。岸田國士の義弟。
1919年(大8)、ドイルの「四つの署名」の翻訳以来、翻訳多数。クリスティ「十二の刺傷」(1935年(昭10))、ベントリー「トレント最後の事件」、クイーン「Xの悲劇」、アイルズ「殺意」、ヴァン・ダイン「グリーン家殺人事件」、ドイル「シャーロック・ホームズ全訳」(1952年(昭27))などがある。
1924年(大13)にクリスティの最初の翻訳として、「新青年」に「ポワロの頭」シリーズと題し、「メンタルテスト」「総理大臣の失踪」「海辺の出来事」「クラブのキング」「別荘の惨劇」「チョコレートの函」を河野峯子名義で訳したのは、おそらくは延原謙である。
1927年(昭2)に「新青年」に発表した大下宇陀児水谷準妹尾韻夫角田喜久雄山本禾太郎とともに連作を行なった「楠田匡介の悪党振り」は探偵趣味の会の「創作探偵小説集 第三号(1927年版)」に収録される。
1927年(昭2)、「れくむつま」を「新青年」に発表。
1928年(昭3)、「新青年」の編集長に就任。
1932年(昭7)、「探偵小説」の編集長に就任。
1932年(昭7)、森下雨村の退社と機を同一にし、博文館を退社。
1938年(昭13)、中国に渡り、事業を展開するが、終戦で財産を失う。帰国後は「雄鶏通信」編集長を務める。
1977年(昭52)、急性肺炎のため死去。

幻影城掲載誌:22/


野村胡堂(のむら・こどう)

本名野村長一。1882年(明15)、岩手県紫波町生まれ。盛岡中学時代に金田一京助、石川啄木と知り合う。東京帝国大学法学部中退。ソニーの井深大の母と野村胡堂夫人のはな夫人が女子大の同級生という縁で、ソニーの大株主でもあった。
1914年(大3)、人物評伝「人類館」を「報知新聞」に発表。
1917年(大6)、「報知新聞」夕刊の川柳欄の選者となる。
1922年(大11)、SF小説「科学小説二万年前」を「報知新聞」に発表。
1924年(大13)、野村あらえびす名義でレコード音楽の批評を開始。
1925年(大14)、学芸部長として、「写真報知」に関与し、江戸川乱歩に「新青年」以外の雑誌に掲載するはじめての小説「日記帳」を書かせる。
1927年(昭2)、報知新聞編集局相談役に就任。
1928年(昭3)、「報知新聞」に時代小説「美男狩」を発表。
1931年(昭6)、「文芸春秋臨時増刊オール読物号」に「銭形平次捕物控」シリーズ第一話「金色の処女」を発表。岡本綺堂以降、もっとも有名な捕物作家となる。
1949年(昭24)、捕物作家クラブ会長に就任。
1958年(昭33)、第六回菊池寛賞受賞。
1960年(昭35)、紫綬褒章を授賞。
1963年(昭38)、野村学芸財団を創立。
1963年(昭38)、武鑑六百冊を東大史料編集所に寄贈。
1963年(昭38)、肺炎のため死去。死後の1970年(昭45)、神田明神境内に平次塚が建立される。


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